自分は脇に置く ということの難しさ。
お正月テレビで見かけた『光明寺』がどうも気になって行ってきた。
第1日曜日の2時から、法話が行われるとのことで参加。
めっぽう記憶力が悪いワタシは、
話聞いたまま覚えていないのだが。
キーワードになったのが、
『自分は脇に置く』
私はこれができないのだ。
子供の頃
自分を脇に置いて置いたら
声を上げなかったら
ひたすら耐えてたら
誰にも気付かれないという経験を
たくさんしてきた。
社会人になって
声をあげずその時々でベストを尽くしてたら
生活基盤が危ぶまれた。
だから声をあげた。
そしたら、(転職もしたが)
ようやく社会人3年目で一人暮らしができる給料になり、5年目で余裕ができるほどになった。そして、今年からようやく年相応の給料プラスαになった。
私にとって、自分を脇に置くということは、
死活問題に繋がると意識的に思ってしまっていることなのだ。
例えば、
理不尽(だと感じる)ことを黙って聞く。
そうすると、
相手は何度もやる。
黙っている=相手は私に対してその理不尽さを行なってもいいと許可する。
という事に繋がる。
黙っていたら、
「あなたはそれで良いのね。」
とスルーされる思いは
二度としたくないと思っているのだ。
防衛本能と言うのだろうか。
それとも、エゴが強いのだろうか。
どうでもいい。
って思えたら、楽なのだろう。
でも、それは自分の人生に対して、
無責任さを感じる。
手放しちゃった方が、
人生うまくいくよ。
って、アドバイスをくれた人もいる。
そんなんで自分の尊厳は失われない
と言ってくれた人もいる。
全てを手放して委ねる。
私には、その勇気は無いのだ。